昭和52年03月06日 朝の御理解



 御理解 第4節
「此方金光大神あって天地金乃神のおかげを受けられれるようになった。此方金光大神あって神は世に出たのである、神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である。金光大神のいう事に背かぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には天地金乃神と言うに及ばぬ、金光大神助けてくれと言えばおかげを授けてやる。」

 天地金乃神様のおかげを受けられるようになったと、天地金乃神様のおかげを受けられるようになったと言う、本当のおかげが受けられるようになったと、いう事はどう言うことだろう。又、ひとつの難儀な問題が解決したとか、助からん命が助かったとか、まぁ色々な願いが聞き届けて頂いて鮮やかなおかげが受けられるようになったと、成程それもやはり天地金乃神様のおかげが受けられるようになったという事なんです。
 昨日林さんが、お届けをなさっておられるのに、この風邪具合いが悪い、もう明日はお参りが出来んかと、日参が出来んかと思うておった。たまたまおかげの泉の25号ですか、開かれたとこに「神様頂きますという、心あらばさわる事なし。」という御理解です。これは食べ物だけの事ではない、もう一時が万事に、神様頂きますという心あらばさわる事がない。
 はぁほんにこうやった、風邪を引いて頭が痛い、少し熱がある咳が出ると、明日はお参りが出来んかも知れんと、こういう思い方の中にはおかげが頂かれませんけれどもね、神様頂きますという心があらばさわる事がない。風邪がいっぺんに抜けた訳じゃないのですけれども、おかげで今日はもうスッキリしてから、又お参りが出けたというのです。金光様の、天地金乃神様のおかげが受けられる様になったと言う事は、もうこれですもうこれ以外にないです。
 これがどの様な場合にでもね、神様頂きますという心あらばという心が出てくるという事。頂きますどころじゃなく、こげな物があっちゃ困る、こげな事じゃ損する、あれはいらんこれはいらん、そして自分の都合の良かことだけば「下さい」と、これはだから金光様の御信心にはもとることになる。天地金乃神様の、おかげが受けられる様になったと言う事は、そういう事なんです。
 それにはね、やはり生神金光大神様のおかげで、おかげが受けられるようになった。金光大神様の御働き、お取次ぎの働きがここのお広前いっぱいに充満しておる、それを自分の心で感じ取らせて頂けれる信心がまず必要なんです。例えば私がここに、何て言うでしょうかね、大坪総一郎が助けてやるぞと言ったようなものがここにある限り、そういうおかげは頂かれない。
 もう大坪総一郎というのは、取次ぎをさせて頂いとる私が取り次ぎさせて頂いとるけれども、もう金光大神様の手になり足になって金光大神のお手代わりとしての私であるのです。 ですから私と言うものはいつも空しゅうしておる訳です、私と言うものは無い訳です、だから金光大神の働きがここには満ち溢れておるのです。金光大神がお取次を下さるその働きが満ち溢れておる。私は今ここに手紙が来ておって、今これは封を切らせて頂いて、この便箋の一枚の所だけを読ませて頂いたんですけれどもね。
 ちょっと読んで見ましょうかね。これ山口の浅野さんと言う方が、手紙がもう山口のこの方に支部が出来る様に浅野さんが初めて一人おかげを頂かれて、もうお参りして来るたびに5人になり6人になり7人になりと言う様に、そして色んな難儀の人に合楽にお参りしなさいという風にお導き下さって、あのあちらに支部が出けるだろうと思われる位な、いわばイキイキとしたごひれいが、合楽のごひれいが輝いておるんです。 
 先日初めての方が、その人の導きで参ってきました。「合楽親先生、いつも御心配をお掛け致しまして有り難うございます、28日に木村みつのさん、ひろ子さんと三人がお参りさせて頂きまして有り難うございました。ひろ子さんが申しますのに、教会に足を入れたとき、お徳が漲っていると申しましょうか、何とも言えない気持ちになり、お広前で親先生にお会い出来てお目にかかった時には、何と言葉で現して良いやら、本当に感動して、まるで自分ひとりだけが親先生にお会いしたように喜んでおります。
 月に一回では待ちきれないと申しまして、月に2回お参りさせて頂きたいと申しまして降りおります、親先生本当に有り難うございます、どうぞよろしくお願い申し上げます、まだこうたくさん、一頁のとこだけ。初めてこの人は参った訳です。もうとにかくお徳が漲っておるお広前と言う事は、金光大神のお徳が漲っておるんです。私というものが空しゅう、私が金光大神のいわば、お手代わりをさせて頂いておる、そこに、なら私が出てはならない。
 私が空しゅうなる、言うなら金光大神と一体になる、そういうお広前だから、いわゆるここに入った途端に目が開いたり足が立ったりするようなおかげにすらなって来る。そういう尊い、言うならばお広前に皆さんがおひき寄せを頂いておられる、果たして皆さんどうでしょうか、毎日お参りしておるとだんだんそれがマンネリになって、もうあたぁりまえになって来るような事ないでしょうか。信心とはそういうイキイキとした心が愈々本当なものに育っていくという事なんです。
 そこに信心修行がいるのです、ならどういう修行かと言うと、なら林さんの昨日のお届けじゃないですけれども、神様頂きますと言う心あらば、だから一日中の上に様々なことが起きてまいりますけれども、それを神様頂きますと言う心あらばあたる事もなからなければ、それがおかげの元になると、でなかったら、他の何様でも、ただ自分の都合の良か事だけを願うて、お願いをするだけであったらね、必ず合楽の金光様じゃなくても良いという事です。
 一心を立てれば和賀心に神がござるから、おかげになると教えられるように、畑にでて、そしてその言うならば石なら石を目当てにして拝んでも良し、柱を目当てにして拝んでも良し、何様でも良いと言う事です。天地金乃神様のおかげが受けられる様になったという事はね、いわゆる林さんのその事です、それが一事が万事にこの生き方、もうこれ以外にないと確信させて頂けるということなんです。
 金光様の御信心は、それをならあらゆる角度から、なぜ有り難く受けなければならないか、というお話が、金光大神のお話の言わば全てなんです。 金光大神の言うことに背かぬように良く守ってということは、教えのその教えの中にはこげな難しい事をせなとても私共にはでけんていうごたる教えは一つもないと言う事。私共が本気でそれを守ろうとこう言う心になったら誰でもが守れるのだと。
 先日からも頂きますように、金光様のご信心の修行というのは、今一生懸命難儀しとる苦労しとるという事が修行じゃない。金光大神の教えに取り組んで苦労をする事が修行だと言うのです。これなら、絶対のおかげが受けられる。家業の行とおっしゃるから今様々な問題というものがあるけれども、その難儀な問題に取り組んで苦しいけれども、その苦しいことを修行と思うてと言うこともあるけれどもね。
 その苦労とか修行とか苦しいという事でも、なら、神様頂きますという修行なんです、でなかりゃにゃでけんということです、金光大神の言うことに背かんのは。昨日は壮年部会でございましたが、これも秋永先生が昨日言っておりましたけれども、本当にこれ程しの会合があるとに、どうでもこれは壮年部会を大会という時にあれだけ沢山の人が集まるんだから、どうでも壮年会に、あの横の連絡をとって、少し沢山会合に出らなければもったいないと言うて、私もそれはいつも実感することです。
 もうそれは、本当にそれは素晴らしいです、壮年は。 誰でもおかげ頂こうごつなかっちゃろうかと思うくらいに、おかげは頂きたい頂きたいと言うとって、あぁ言うおかげの頂けるごたる会合に出て来んち言うのだから、頂こうごつなかっちゃろう。どうぞお願いしますっち言いながら、やはりどうぞお願いしますっち言うたら、もううすらパーっとお願いしますと言いよるとじゃろうと、そりゃぁ思われるくらいであります。
 壮年なら壮年部の人たちが同じ年齢の人たちが集まって本気でおかげの頂けれる道を体得しよう頂こう、しかもその度、例えば夕べの色んな話の中に、例によって石井清さんが発表しておりました事なんかも、そりゃぁ素晴らしいです。頂き違えるとちょっとみょうな事を言いますもん、どういうことを言うかと言うと、先日から神様から、信心の勉強はもうやめろとおっしゃったそうです、神様が。
 それはどう言うときにそういう風に、この頃また非常に、こう御霊様との関係、今日は佐田さん所のおばあちゃんの五十日祭がございますが、昨日そのこの頃あれは三橋先生の、じゃない、誰ち言いよったですかね、その時にも、あの御霊様との出会いを、というのをおりましたが、あの昨日もその事を言ってましたが、あの本当に御霊の喜びと言ったものが直に感じられるくらいに、自分と言うものが、こう御霊の世界と神様の世界にスーッと入っていけれる心の状態が頂けてきたという事を、人に言うても分かるまいけれども有り難いと思いますと言うて、あの発表しておりましたが。
 この頃は、例えば自分がお願いをするお願い通りになって有り難いというのではなくて、お願いの反対な事へ反対なことへなっても、それがおかげであると分からせて頂いて、金光様の信心が素晴らしいと思うた時にです、もうこれからは信心の勉強はいらんと神様がおっしゃる。そこん所が分かったら信心の勉強はいらんとですよ、言うならばあれもおかげであったこれもおかげであったと分かるのですから、真の信者です。 
 言うなら、ここで言われるとどういう事になるかというと、一切が神愛だと受けれるようになったんですから最高ですから、勉強はいらんです。但しその最高というてもそれを段々偉大なものにして行くというところに、信心の精進がいるわけですけれどもね。私はあの、清さんの話をそれこそ瞑目しながら、なかなかやる事言うなと、そればってんこれを頂きようを違えると、他の者が真似してからお参りもせんでん良か、信心の研修なんかには出らんでん良かというような事に取り違える向きがあるが、これはどう頂いたら良いだろうかと思うて、お願いしながら聞かせてもらいよりました。
 そしたら神様からね、運命 宿命 天命ということを頂きました、運命 宿命 天命と。私これはまた一つ合楽理念の確立に一歩近づいたという気がいたしましたですね。今清さんが言っておることはどう言うことかと言うと、例えばお互い運命、もうこれは私の運命だと言うように言う人があります。でもその運命は、自分の心次第で有り難い方へも、また悪いにでも変わっていくという事なんです。
 運命というものは定まってはいないというのです。信心のない人はその運命の言うならば、に押し流されるように自分の辿らせていただく道を、良いことにもなり悪い事にもなって行っておるという人もあります。良い運命の人は良い幸せをいただき、悪い運命の人はいよいよ一生を難儀苦労で終わらにゃならんという人もありますけれども。ひとたび自分の行き方をですね、言うなら変えてまいりますというか、言うなら信心によりますと、運命が変わって良い運命に変えられていくというのが、運命です。
 宿命というのは、もうこれは、もう一つの業のようなものです。これは、自分自身がそれを、ね、からわなければもう仕方がない、宿命とは宿の命と書いてある。もうこれは私の宿命と思いますと言うでしょう、これはどうにも仕様がないもの、宿命というのは。天命というのは、良くお芝居なんかの台詞で申しますでしょう、天命と思い知ったかとみたいな事をね。
 敵討ちなんかの時に相手を殺してね、天命と思い知れといったような事を申します。それはどういう事かというと、神様の思し召しだという訳です、天命というのは、それがご神意だと、お前は殺されなければならない言わば天命なんだと、これはね。皆さん、ただね、もうこれは自分の宿命だと諦めたり、これは運命だからどうにも出来ないというのでなくて、信心とはその宿命やら運命やらをですね、それを言わば有り難いものに変えていく生き方を教えるのです。
 そしてなら神様の思し召しのまにまに自分が生き抜いて行く事が出来るのです。神様の思し召しというのは、言うなら天地金乃神様のお心というのは、氏子信心しておかげを受けてくれよ、氏子幸せになってくれよという事だけしかないのです。ですからそれが天命なんです、だから神様のご神意を思し召しとして一切を神愛としていただくという事なんです、言葉を変えますと。
 ですから、例えばもうこれは自分の業だ、もう一生かろうていかなければいけないのだ、いいえ、末期の代々までこれだけはかろうていかなければならない、そういう自分には宿命があるのだと言う風に申します。ところがそういうふうな宿命、しかしその事自体も神愛だと頂くのです。運命、例えば現在難儀をしておる、それが自分の運命ならば、それをそのまま合掌して受けるというのです。
 それが運命宿命が、天命に変わっていくのです、それを頂かないから、天命だから思い知ったかといった結果になるわけです。その宿命も運命もそのままありがたく合掌して受けるという生き方をです、楽しゅう嬉しゅう受けられるように、説いてあるのが、合楽理念なんです。だからどうしても、合楽理念をマスターしていかなければならない、金光大神のいう事に背かぬように良く守って信心せよと、金光大神がどう言う事を言っておられるかというとです。
 あれもおかげであった、これもおかげであったと、分かる様な信心をさせて頂ける。そこから生まれてくる和賀心、和らぎ喜ぶ心、その和らぎ喜ぶ信心の喜びの心を持って事にあたらなければね、頭では分かっておっても、それを神様頂きますという心が、生まれてこないです。どうして自分だけがこげな難儀な思いをせにゃならんだろうか、どうして自分なこげな病気をせなならんだろうか、という心があって、そして頂きますと言ったって、それは頂きますということにはならない。
 神様頂きますという心あらば触る事のない、それが今申しますように、ありがたいという心にならなければそれが受けられんのです。合楽が今、この山口のご信者が言っておりますように、もうここには金光大神の言うならば、御神徳が満ち溢れておるのです。その金光大神の働きの邪魔に成らん様に邪魔にならんようにという私が信心修行をしとるからです。だからそういう言うならば素晴らしい雰囲気がここに漂うておるわけです。それを、なら受け止めるのは皆さんのイキイキとした心だという事です。
 イキイキとした心とは、修行をものともせん、という心がイキイキとした心です。朝参りが、楽しゅうなる有り難うなる、どんな問題であっても、神様頂きますと言う様なイキイキとした心、その心で神様の言わば、御神徳の中にあることの喜びも、お広前、合楽のお広前に来ると、これは、御神徳が満ち溢れておる私どもの、この地球一杯に漲っておる御神徳とは、また違ったその、神様の御神徳をここに集めたようなものが、合楽のお広前にはあるのです。
 それが有り難い尊いものになる、それを私どもの心でキャッチする事のためにです、修行を怠ってはならない、修行をさせてもらう自分の心がイキイキしてくる、どういう修行をさせてもらうかというと、一切神愛と頂きぬかせて頂けれるという事、清さんが言われる、神様から頂いたと言われるように、もう勉強はいらんという事は、一切が神愛と頂き分からせて頂いたら、もうこれ以上の勉強はいらんのです。
 それを大変むずかしゅうにです、言うならば理屈を言わばこね回して教えておる宗教がたくさんあります。キリスト教がそうであり仏教がそうなんです。もう成長の家なんかはもう、あれだけぶつだいな事がわからなければ、大変むつかしゅうしておられる。 合楽の、言うなら合楽理念というのはそうではない、本当に一切が神愛だと分からせることを、いつも淡々と楽しゅう、簡潔におしえておるのが合楽理念です。
 必ずそんな難しい事が喋れたり言えたりする事が、信心が出来たという事ではありません、だからそういう風な間違いをしておる人があります。天地金乃神という神様は、そういうお方なんです。天地金乃神のおかげが受けられるようになったという事は、天地金乃神様のお心がわかって、言うなら一切が神愛という所に運命も宿命も、もうそれがいよいよ有り難い自分の心を育ててくれる、糧にしかならないのです。
 そこに素晴らしい天命、神様の思し召し、神様の思し召しと言うのは、氏子がよりいよいよ幸せになるという事だけしかお考えになっていない、思し召しが私の上に現れてくるのです。実際これ以上の勉強は無いです、問題はその事をだから思いこめれる、その事がそうだと実感して受けられる為に、人間ですから、中途半端な心では、それが分かっておっても受け止められんのです。
 合楽合楽と言うて、山口県辺りからでもお参りをしてくる。お話には聞いてはおるけれどもどういう所だろうかと思うて一生懸命に参って来る、入った途端に、言わばここに漲っておる、言わば御神徳にふれて感動する。そう言う様な一生懸命な直向なものが、私なからなければいけないと思うです。ひとつそれこそ清さんじゃないけれども、もう信心の勉強はせんで済むというほどしの信心を頂きたい。
 それはどういう事かというと、もう一切がおかげ、一切が神愛と頂けれる所まで信心修行をさせて貰わなければならない。そうしてそこを頂いたからというてですね、まぁ言うならば昨日もその話を聞いた後に申しました事ですけれども、そういう境地を開いた人たちがあります、それを仏教的に言うと悟りというのです。人間は生かされて生きておる、だからバタバタせんでも ちゃぁんと間違いない道さえ歩いていきゃ、生きていく事には不自由はない程に天地が守ってくれるんだという、大きな悟りなんです。
 良寛というお坊さんが、自分の家には五合よりほかにこのお米は置かないと、いつも五合があるという、だからもう何千石の言うならお米を持っておるのと同じ事でしょうが、無限ですから。いつも五合だ、だから自分の庵を五合庵と言ったという。あれはどなたかの句でしたけども、いるだけは風が持て来るこの葉かな、というのがあります。必要なだけは必要なもの、だから、ただこの葉が集まるぐらいな事であってはならない、いつも五合しかないといったような事であってはならない。
 なら十人のお客さんがあったら、もう困らなければならない。ですからね、それをいよいよ偉大にして行く事のために、これからの修行がいるよねというて、まぁ清さんに話したことでした。そういう素晴らしい境地を開いた、もう勉強せんで済むほどしのおかげを頂いた、一切神様のご神意思し召しが自分の家、自分の家庭には頂けるようになった。だから、それが自分の家自分の家庭だけではなくて、それが偉大な、言うならば大きくいうならば、世界総助けと。
 世界総人類の幸せを願うほどしの大きな願いにもそれが発展していって、ご神意思し召しがそういう大きなところにまで働きが行き渡って行くようなおかげを願う所に、信心の言うならば修行というものは限りがないものだという事になります。清さんの話を聞いておると、もう石井一家だけはあるならば、もうそれこそ安気安穏で過ごしていけれるでしょう、あぁいう境地を開いたんですから。それが周囲にも広がっていくほどしのおかげを頂くためにはね。
 ならこれからが、またそれを偉大なものにしていく、信心修行がいるという事は、勿論です。私どもに掛けられる神様の願い、それを、まぁ天命というふうに、頂いてもいいでしょう。その神様が私に掛けてくださる願いが、いよいよ大きく成就していく事を、願わせていただく、そういう信心が、私は真の信心だ、本当に素晴らしい、大きな信心だという風に思いますね。
    どうぞ。